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【2013年7月】バリー・ギブ、ガーディアン紙ロング・インタビュー

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英ガーディアン紙(2013年7月18 付)より

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2013年7月、秋の英国ミソロジー・ツアーのスタートを前に、プロモーションのために訪英中だったバリーが行ったインタビューのひとつです。ガーディアン紙(オンライン版2013年7月18日版)に掲載されました。アルバム『イン・ザ・ナウ』にいたる心の軌跡を見ることができます。

以下に簡単にまとめてご紹介します。

1979年に発行されたビージーズ公認のイラスト版伝記『グレイテスト』(訳注:これは筆者の勘違いで、実際には『レジェンド』)は、そう謙虚ともいえないタイトルだが、彼らの商業的立ち位置をかなり正確に表している。それに先立つ4年間に、ビージーズは全米ナンバーワンを8曲たたきだし、(当時、史上最大の売り上げをあげていた)映画『サタデー・ナイト・フィーバー』のサントラで中心的な役割をつとめ、他のアーティストのためにも世界的なヒットを次から次へと提供していた(サマンサ・サングの「Emotion」、タバレスの「More Than a Woman」、イヴォンヌ・エリマンの「If I Can't Have You」、フランキー・ヴァリの「Grease」、それに、もちろん、末弟アンディ・ギブのナンバーワン3曲)。意外なのは彼らがマンガのキャラとして描かれていたことだ。後のち、ビージーズは失敬なインタビュアーを相手にしたときに「自分で自分を笑えるようなユーモアのセンスがない」と非難されたりもするのだが、『レジェンド』は、そんなことはないという証拠である。ロビンはレッド(アイリッシュ)・セッター、モーリスはアナグマに描かれていた。そして長兄にして、豊かな頭髪とひげをたくわえたバリーはライオンだったのである。
34年後のいま、この取材のためにロンドンの某ホテルに現れたバリー・ギブはいまだライオンの名にふさわしかった。髪は白くなり、ボリュームも減ってきているが、67歳にしていまだにたてがみらしきものがある。もうひとつ、サングラスをかけていたのだが、超リッチで大成功しているロック・スター以外、室内でそんなものをかける人間はおらんって。けれどもそれ以外にはすべてが変わった。ビージーズはすでにない。弟たちは全員が亡くなってしまった。アンディは1988年に30歳で。ソロキャリアが低迷したはじめたとき、バリーはアンディにビージーズに入ればいい、といっていたのだが。モーリスは2003年に急死。ロビンは昨年、直腸がんで。

バリーは、ロビンが病気のことを自分に隠していた、という。「誰もぼくには何もいってくれなかった。でも具合が悪そうに見えたので、新聞にのっていたロビンの写真をかかりつけの医師に見せたら、『会いにいきなさい。持って6ヶ月ほどでしょう』と言われて、『なんてことだ、これで弟がみんないなくなってしまう』と思いました」
現在、バリーはワールド・ツアーの最中で、新しいソロ・アルバムを作る可能性についても話し合っているところだ。1年前には引退することを考えていた人間にしては信じられないぐらい忙しい身だと、彼自身認めている。「もう十分だ、と思っていたんです。骨はガタガタだし、膝も痛い。こんなにいろいろなことがあったんだし、もう孫たちのお祖父ちゃんになってのんびりしようかな、と。けれども音楽がある。歌わなくてはならないし、音楽を絶やしたくない」

つらいのはロビンの死だけではない。死んだときに3人の弟の誰とも良い関係になかったことが苦しいのだ、という。「話もしなかった、そのことを何よりも後悔しています。お互い、ほとんど話していなかったんです。最後の時間だったというのに、ぼくたちの間には距離があった」

特にバリーとロビンの関係はずっと難しかった。モーリスの死後、何度か一緒にやろうという話は出た。何度かステージにも立ち、『ストリクトリー・カム・ダンシング』にも出た。けれども再結成の計画は実現されることなく終わった。「ロビンが電話してきて『このクイーンのトリビュートとかに出よう』みたいなことを言うんです。あれをやろう、これをやろうって。でも話していると一緒にやろうというのはロビンが考えたことじゃないな、とわかるんですよ。誰か他の人間の考えなんです。ロビンのことなら誰よりもよく知っていますから。ロビンはそんなことができる状態じゃなかった。ライヴをやるときに、キーを下げ始めていることにも気がついていました。あれも兆候のひとつだったと思います。『ロブ、何も言ってくれないけど、なんだか変だよ』と思っていました
バリーはため息をついた。「ぼくはロビンに言いたかった。『どうしてビージーズのことはもういいって思えないんだい。もうゆっくりして、あのときは楽しかったよね、って言ってもいいんじゃないか。どうして夢は実現したと思えないんだ? 本当に夢はもうかなったんだ。かなった夢をまだ追い続ける必要があるのかい?』って。でもロビンもモーも、ふたりとも、まだまだやりたがっていた

 ビージーズは実に2億2千万枚のレコードを売り上げたとみなされている。これだけ成功したアーティストがまだ夢が実現していないと感じているというのも妙な話だが、晩年のロビンは確かにそんな印象だった。よりにもよってRadio 4の『フロント・ロー』の席から憤然として立ったり、インタビューでは、ビージーズが認められていない、とピリピリした様子で話したり。問題は、明らかに、ビージーズの商業的成功と評価のつりあいがとれていないことにあった。ビージーズが自演したり、他のアーティストに提供したりした音楽は、忘れがたいものだ。まるでそのことを証明するかのように、私がバリーに取材するほんの数日前に、グラストンベリーでケニー・ロジャースが、ビージーズが彼のために書いた1983年のヒット「アイランズ・イン・ザ・ストリーム」を歌って大喝采を受け、結局、2度も歌う羽目になっている。けれどもいまだに、ビージーズというと、「ああ、あの…」と知った風な笑顔を浮かべて、ある種の冗談か、恥ずかしい、やましい趣味のように扱う傾向がある。長いあいだにこれがどのぐらいカンにさわるものか、想像もつこうというものだ。2億2千万枚もレコードを売っても、いまだにきちんと音楽面で論じられることは少なく、歯が大きいだの、70年代に着ていたあの衣装がどうだの、といってバカにされる。

ビージーズは、『サタデー・ナイト・フィーバー』のサントラに提供した曲(クラクラするほど完成度の高い「ステイン・アライヴ」、せつない歌詞と高揚感に満ちた音が絶妙なさじ加減の「アイ・キャント・ハヴ・ユー」等)を創造し、その結果、サントラ・アルバムを4000万枚も売り上げた。そしてその後の20年間、究極のポップスに満ちた時代を代表するアルバムを発表して大成功したのではなく、何か大きな間違いでもしでかしたかのように、つるしあげをくらい続けたら、誰でも少しぐらいピリピリするのではないだろうか。

「もう何についても達観できる年齢になりましたね」とバリーはいう。過去にはビージーズの評判について非常にピリピリした印象を与えてきた彼が、だ。1996年にクライヴ・アンダーソンのテレビショーで、インタビューの途中でビージーズが席を立ったとき、先頭に立ったのはバリーだった。「だから、もう気にしてません。大事なのは、自分が作った曲を自分で気に入っているということです。自分が気に入っていればいい」

ほんとですか? 私だったら、腹が立ってしかたないと思うけど!

「うーん、そうねえ。たしかに心のかたすみでは、『バカヤロー、それなら、おまえも同じような曲を書いてみろよ、見ててやるから』と、ちらっと思わないでもないですけどね。でもだいたいにおいて…もう、気にしてないんです。『なんだよ、あれはいい曲だったんだぞ』といいかえす必要を感じない。意見は人それぞれですからね」

一般的には、『サタデー・ナイト・フィーバー』が成功しすぎたことで、「これだけバカ売れしているということは、ひょっとしてダサいんじゃないの」という見方がある。けれども実のところ、ビージーズは決してクールだったことなんかない。おそらく、1966年(訳注:実際には1967年)にオーストラリアからイギリスに戻ってきたその当初から、ビージーズはクールというにはあまりにも変わっていたのだ。(ちなみに1958年に、ギブ一家が、マンチェスターの一警官のアドバイスを受けてオーストラリア移住を決意したのは、12歳のバリーが万引きで逮捕され、ロビンが放火に興味を示すようになって、ゆくゆくは犯罪者への道を歩むのではないか、という懸念があったからだ)。

オーストラリアでの音楽修行が、まず変わっていた。思春期の兄弟3人は、ホテルや退役軍人のクラブで、芸をする犬や曲芸師といった出し物の合間に登場して歌い続けた。『いろいろ見ましたよ。テーブルについて座ったまま喧嘩している人とかね。歌ってるとトタン屋根から雨がどっと漏ってくるんですよ。まるで『クロコダイル・ダンディー』の世界でした」

声も変わっていた。特にロビンだ。ロビンは首を絞められたような独特の震え声で、今にも泣きだすんじゃないかと思うような歌い方をした。曲も変わっていた。それでも、まだティーンエージャーだったころから、彼らは、エルヴィス・プレスリーからアル・グリーンまであらゆるアーティストにカバーされるような現代のスタンダード曲やスケールの大きなバラードを書いていた。ラヴ・サムバディ」ひとつとっても、あまりに幅広い多種多様なメンツにカバーされているので、一覧を見るとちょっと笑えてくるぐらいである。トム・ジョーンズ、二ナ・シモン、ジャニス・ジョプリン、グラム・パーソンズ、リー・“スクラッチ”・ペリー、ダスティ・スプリングフィールドを経て、ローナン・キーティングとジョー・ストラマーの両方が歌った曲なんて、おそらく史上で「ラブ・サムバディ」ただ一曲だけだろう。

しかしその一方で、彼らの最初の3枚のアルバムは、当時全盛だったサイケデリック的傾向にそぐわない、壮麗に歪んだバロック・ポップの曲がいっぱいながら、どうもまともではない状態で想像力が爆発した結果であろうと思われる。「Lemons Never Forget」「I Have Decided to Join the Airforce」「The Earnest of Being George」あたりの曲を聴くと、ビージーズはかなり幻覚剤をやっていたのではないかと結論したくなるが、バリーは、そうではないという。少なくとも、それはちょっとちがう、という。「LSDとかヘロインとか、あっち系のものはぜんぜんやってません。もっとも大麻はやりました。すごいですよ。大好きだった。心が解放されるんだ。マジック・マッシュルームもそうですね。でもマジック・マッシュルームとかは通過点です。常用するわけじゃない。頭がパッとクリアになって、いま自分に何が必要かをわからせてくれる。だから習慣ではなく、経験でした。アンフェタミンとか、デキセドリンとか、ああいうのがまわり中にたくさんあって、ぼくたち3人とも気に入ってましたが、モーリスはどっちかというとスコッチ派だったと思います。ルルと結婚して、ピーター・オトゥールとかリチャード・バートンとかルルが知っているいろんな人たちと飲むようになったんです。彼は、それで世界がすっかり広がって、永遠の外向的人間になった」
こうしてビージーズは大成功したが、1969年に『オデッサ』を出すころにはバリーとロビンの間の緊張関係が限界に達し、グループは解散した。『オデッサ』はビージーズ独特のポップ・ミュージック観がロココ風の頂点に達したダブルアルバムだったのだが。「気がつけば有名になっていて、それがどういうことなのかよくわかっていなかったぼくたち三人兄弟の間には、深い感情的なライバル意識がありました。デキセドリンとかの常用もあったし、三人とも将来の結婚相手になる女性にも出会っていた。それまでとは全く違う暮らしになっていたんです。当時のロビンはかなり手がつけられなかった。詳しくはいえませんが、手がつけられなかった。モーリスはすでにアルコール問題を抱えていた。争いはますますひどくなっていきました。ロビンとぼくはマスコミを経由してけんかしてましたからね。今見ると、ああ、ぼくたちはほんとに世間知らずだったんだ、と思いますね」

1年後、三兄弟は再結成する。しかしさほど熱意はないままに。マネージャーだったロバート・スティグウッドが会社を上場するにあたり、ギブ兄弟がそろって仕事している方が株価が上がると考えたのだ。70年代前半をどうにかやりすごしたビージーズはエリック・クラプトンのすすめでマイアミに移動する。クラプトンの1974年のアルバム『461 Ocean Boulevard』のタイトルにもなった家を借りたのだ。今ではビージーズの評価を気にしない様子のバリーだが、それでもビージーズをもっとも有名にしたといえる一連の曲については、いまだに複雑な思いがあると見える。「ステイン・アライヴ」の話になると、CPR(心肺機能蘇生)を行いながら歌うと正しいリズムが得られるという広告キャンペーンの話を持ち出してきて、「何にだって良いところがありますよ」とつぶやいたのだ。

『サタデー・ナイト・フィーバー』後の反動はフィーバーの成功と同じぐらい過激だった。「僕たちの誰ひとりどう対応していいのかわからなかった。『ええっ、そんなのひどいじゃないか』、とかいろいろ思いましたよ。テングになるどころじゃなかった。みんなにクズ呼ばわりされて、どうして自分に価値があるなんて思えます? 大ショックでしたよ。でもちょうど息子が生れたところで、いろいろなことが心の支えになりました。『そうかい、そうかい、みんながそんなに悪くいうなら、ぼくも外のことは忘れて家族に集中しよう』と思いました」

しかしフィーバーの反動は、ビージーズのキャリアを一時的に阻んだとはいえ、彼らがヒット曲を書く能力には何の影響もなかった。彼らは他のアーティストのためにヒットを生み出し続けた。バーブラ・ストライサンド、ケニー・ロジャースとドリー・パートン、ディオンヌ・ワーウィックの「Heartbreaker」、ダイアナ・ロスの「Chain Reaction」。(ところでテイク・ザットの「Back For Good」は実はこっそりバリーが書いたのだと業界では長らく噂になっているのだが、バリーはその曲は「聞いたことがない」そうだ) 「まあ、いつだってめくら打ちですよね。そう考えるんです。とにかく曲を書いて、『これ、みんなが気に入ってくれればいいなあ』、と思うしかない」

バリーは、現在、またレコードを作りたいと考えているそうだ。ツアーも楽しんでいるが、ソロ・アーティストであるという思いは楽しめずに来た。「とにかく楽しくない。いつも弟たちと一緒だったし、一緒にやるのが楽しかったんです。ぼくたちはユニットとして、分かちがたく結びついていた」 けれども今のバリーには選択肢がない。「でも今はこれまで生きてきた中で一番幸せです」とバリーは意外なことをいう。「孫が7人。一緒にバッグズ・バニーやダッフィー・ダックを見たり、もう一回、人生を生きなおしています。過去をふりかえって喜こんでいられる時間が長い。だってあれだけヒットが出せたんだ。実は、何ひとつ実現しなかったという可能性だってあったわけですよね。いまだに(オーストラリア)のクイーンズランドのクラブで演奏してたかもしれないんだ。だから、現実に起こったことに感謝して喜ばなくちゃ、と思えるようになりました。夢は実現したんです、本当にね」 そういってバリーは微笑んだ。

                        ーアレクシス・ペトリディス

アレクシス・ペトリディスはガーディアン紙のポップス/ロック評論のチーフです。BBCが制作したビージーズについての名ドキュメンタリー『The Joy of the Bee Gees』にもコメンテーターのひとりとして登場し、いろいろと興味深いコメントをしていたのをご記憶の方もいるでしょう。(ついでながら、この『The Joy of the Bee Gees』はとてもよくできたドキュメンタリーなので、NHKあたりで放送してくれないか、と思います) 

そのペトリディスが聞き手ということもあり、また、(どちらかといえば「空気が読めない」タイプで失言も多かったロビンと比べて、「ビー・ジーズ随一の外交官」とまでいわれた)バリー自身が、最近では前よりずっと率直になってきているということもあって、このインタビューなどはかなり彼の本音を引き出していて面白い。「ステイン・アライヴ」をバカにするような人がいたら、「バカヤロー、それなら、おまえも同じような曲を書いてみろよ、見ててやるから」と言ってやってほしいものですね。

{Bee Gees Days}


 

Words

(「モーリスのどこが嫌い?」と聞かれて)

ドーナツを飲み物につけて食べるのがやだ。

ロビン・ギブ