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【2003年8月】デイリー・メール紙―ロビン・ギブ独占インタビュー「モーリスが死んだなんて認めない」

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「ロビン・ギブ、初めてモーリスの死を語る」
(デイリー・メール紙2003年8月9日号)

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2003年1月のモーリスの急逝後、ロビンがメディアを前に初めて心境を語った同年8月9日号の英紙デイリー・メールのロング・インタビュー。

以下に簡単にまとめてご紹介します。

 

「ぼくは弟が死んだなんて信じることを拒否する」――ビー・ジーズのロビン・ギブが初めて弟モーリスの死について語った

モーリス・ギブのトレードマークだった帽子は、いまオックスフォードシャーにあるふたごの兄の家の二階の戸棚にしまいこまれている。1月にモーリスがマイアミのマウント・サイナイ病院で心停止による脳損傷で亡くなったときに、この帽子はロビンに託された。モーリスは53歳の若さだった。ロビンは譲られて以来、一度も帽子を見ていない。モーリスの写真や、子どものころに撮ったホームムービーも見ることができない。

「ちょっと前の週末にアイルランド行きのフェリーに乗っていたら、ビー・ジーズのドキュメンタリーが上映されて」とロビンはいう。「大きなスクリーンいっぱいにモーリスの顔が映って、どうしても見られなかった。写真でもモーリスの顔が見られない」
 

これは弟の急死以来、ロビンが行った初のインタビューだ。すでに7ヶ月が過ぎているというのに、いまだにロビンはモーリスが亡くなったと認めようとしない。


「すごく、すごくつらい」という。「モーリスはぼくの人生の一部だった。子どものときも、ティーンエージャーになってからも、ずっと一緒だった。一緒に音楽をやっていたから、ずっとずっと一緒だった。モーリスが死んだなんて認められない。きっとどこかで生きているのだと思っている。“自分をごまかす”というけど、まさにその通りだ。今のぼくは自分をごまかしている」

ロビンに会ったのはテームにある彼の自宅だ。もともと僧院だったものを改装して、二番目の妻であるドゥイーナ・マーフィー・ギブと一緒に暮らしている。ここで最後に会ったのはモーリスが急死するひと月前だった。当時からがりがりだったロビンだが、また一段とやせたようだ。深い悲しみが目のまわりに刻まれている。ロビンはピリピリとして繊細なグループの詩人であり、内向的な性格だった。ミュージカル・アレンジャーだったモーリスは外向的だった。兄のバリーとともに三人は、貧しくつらい子ども時代の現実を逃れるために、音楽の世界を創り上げていった。

マン島生まれのギブ兄弟は、七人家族を養う仕事を求める父親の都合で、イギリス各地を引っ越してまわった。「現実の世界はあまりにも現実すぎて、ぼくたちはいわゆる生活とは別のところで生きたかった。ぼくたち三人だけのための魔法の世界を作り出したかった」 

 

モーリスとロビンは6歳のころからハーモニーをつけて歌うようになった。エコーがかかるのでトイレで練習したものだ。兄弟が歌うのを初めて耳にした父親は、てっきりラジオだと思った。
 

ふたごが7歳になるころには、父親は子どもたちを自分が働いていたクラブに連れていって、ひとりあたり半クラウンずつ払うようになっていた。1958年に一家はオーストラリアに移住。そこで三兄弟のレコーディング・キャリアが始まる。やがて家族全体を養うようになった兄弟は、1967年の帰英後まもなく、世界屈指のパフォーマーとなる。成功は兄弟の絆をいっそう強固なものにした。

ぼくたちは音楽にとりつかれたようになって、最終的には誰と一緒にいるよりもお互いと一緒にいる方が楽になった」とロビンはいう。「ぼくたちは三人でひとりの人間みたいだった」 苦しみはロビンの声にも歴然としていた。これまでモーリスの死について話すことができなかったロビンは、ほとんど怒っているような調子で、むきだしの率直さで語り続けた。
 

モーリスは1月12日の深夜を少し回って亡くなった。腹痛を訴えてマウント・サイナイ病院に入院してから3日も経っていなかった。医師団はモーリスの腸がねじれているのに気づかなかった。モーリスには痛み止めが処方され、翌日に検査が行われることになっていた。しかしその夜のうちに小腸が破裂し、毒素が体中に広がって、心停止を引き起こした。
 

モーリスは病院の8階、VIP用の特別階に収容された。緊急用の機器はその3階下に配置されており、モーリスに心肺蘇生措置を施すために必要な設備をそろえるのに10分以上もかかった。その段階ですでに脳は大きなダメージを受けた。
 

「朝の4時ごろ、気分が悪くて目が覚めた」とロビンはいう。「1時間ぐらい、そんな状態が続いた。それがちょうどモーリスが腹痛を訴えて入院したころだった。きっと何かが変だという徴(しるし)だったんだと思う。生れて初めて感じるような気分の悪さだった。
 

木曜日の早朝、オックスフォードシャーの家にいたぼくに、パーソナル・マネージャーから電話がかかってきて、モーリスが心停止を起こして手術を受けたと聞かされた」とロビンは記憶をたどる。「すごいショックだった。入院していたことさえ知らなかったから」
 

この手術でモーリスの胃の80パーセントが切除されたが、意識は戻らなかった。ロビンはドゥイーナ夫人とともにマイアミに飛ぶ。「土曜日の朝に出発した。医者はまだ助かる見込みがあると言っていた。
どうかそうであってくれ、と万にひとつの希望にすがるしかない。僕は『こんなことが起こるはずがない。モーリスはまだ若すぎる。病気でもない。病気だったことなんかないのに…』と思っていた。でも飛行機がマイアミに近づくにつれて、モーリスは死ぬんだという怖ろしい感覚がこみあげてきた。もうお別れだとモーリスがぼくに教えていてくれたのかもしれない。ぼくは怒りとパニックと絶望と無力感を味わった。この無力感が一番つらかった。それに巨大な恐怖。まるで生きて地獄にいるようだった」 

 

空港では二人の警官とパーソナル・アシスタントのディック・アシュビーがロビンを待っていた。兄バリーの家経由で病院に連れていかれたロビンは、モーリスとふたりきりになる時間を与えられた。
 

「脳死するということは、性格も、その人らしさも、すべてが死んでいるということだけれど、モーはまるで眠っているみたいに見えた。顔色もよくて、機械につながれていたけれど、呼吸もふつうだった。手を握るとあたたかくて、こわばってもいなかった。まるで病気だという感じがしなかった。
 

ぼくは本能的にモーリスを起こそうとした。手を握って、耳元で叫んでみた。やさしい言葉をかけたんじゃない。ぼくは『起きろよ、何バカなことしてるんだよ。バカヤロー、起きろ!』って叫んだ。15分ぐらいそうしていた。
 

ぼくは、モーリスがものすごく悪い状態だと認めていなかった。これほど身近な人間が目をさまさないなんて、想像もつかなかった。
 

それから医師が入ってきたので、『目をさますことはありますか?』と聞いてみた。答えは『ありません』だった。『まったく見込みがありませんか?』と聞くと、答えはまたも『ありません』だった。モーリスの脳はもう生きて活動していない、と言われた。
 

そのあと少しして、医者から家族に説明があった。モーリスの脳に酸素が行きわたらなかったのだそうだ。頭を銃で撃たれた方がまだ希望が持てるぐらいだ、と言われた。
 

2分以上心停止状態が続くと脳死状態になる。ぼくたちが意識しているこの世界とまったくの無を隔てるのは、たったの2分間だ。意識なんて、そんなにももろいものなんだ。
 

みんなで話し合った。誰にとってもつらい決断だったけれど、助かる見込みがまったくないのなら、モーリスは何ヶ月もそんな状態でいたくないだろうとぼくたちにもわかっていた。
 

心の底ではぼくも、モーリスはもう帰ってこない、とわかっていた。尊厳をもって行かせてやった方がいいって」


それが午後10時ぐらいだった。午後11時半ごろ、装置を切るようにという意思が伝えられた。モーリスが機械なしで生き続ければ良いけれど、もし無理であれば…ということで、ロビンとバリーはそろってモーリスに別れを告げに行った。ロビンはモーリスにキスもしなければ、涙も流さなかった。
 

「モーリスなしでも頑張り続けようとバリーと言い合った。モーリスにキスもしなかった。まだ何が起こっているのか、認められずにいたから。何か奇跡が起きないかと思っていた。もちろん、奇跡なんか起きなかった。今になると、キスしてやればよかったと思う


モーリスは少なくともその夜いっぱいは持つだろうと、消耗しきったロビンは病院を後にした。午前12時10分、モーリスの死亡が宣告された。かたわらにはイボンヌ夫人が付き添っていた。知らせが届いたとき、ロビンはマイアミの自宅のドックに立っていた。その夜、ようやく眠りについたロビンはモーリスの夢を見た。
 

「夢の中で、ぼくはマイアミの自宅の寝室で目がさめて、寝室のドアを開けた。モーリスが廊下に立って、こちらに背を向けていた。帽子をかぶっていて、半分ぼくの方を振り向いた。歩き去ろうとしているところだった。それで、モーリスも何が起きたか知っているんだな、と思った。それから、ぼくにできることがあったのに、と言われているような気がした。ぼくがオックスフォードシャーの家で気分が悪くて目がさめたとき、モーリスはぼくに助けを求めていたのだと思う。モーリスが入院しているとその時に知っていたら、助けることができたのに。
 

モーリスは胃が痛いと病院に行った。朝食もとったし、前日には病気でもなんでもなかった。医者はレントゲンを1枚撮って、痛み止めを処方し、『明日、胃の専門家に診てもらいましょう。それでは』と言った。それが午後4時だ。13時間後にはモーリスは脳死していた。
 

モーリスがその辺の浮浪者なら、大急ぎで緊急治療室に搬入されて命をとりとめたと思う。完全に医者のミスだ。ぼくたちはすごく怒っている。病院をこのままですますつもりはない。弁護士が調査中だ。あの日以来、調査が続いている。モーリスの死は完全に避けられた死だったのだから」
 

ロビンはモーリスの死に続く数日間のことをはっきりと思い出せない。怒りと絶望と苦しみに感情が揺れ動いていた。ファンやミュージシャン仲間からたくさんの慰めの手紙が届いた。自分たちも大きな悲しみを経験したサー・ポール・マッカートニーとエリック・クラプトンが特に力になってくれた。
 

「みんな、モーリスが業界に大きな功績を残した、と言ってくれた。けれども、それ以上に、人間として、モーリスはすばらしい人だったと言ってくれた。でも、それでもやっぱり、モーリスはもういない
 

ロビンは最後の瞬間までモーリスの葬儀に出るだけの強さがあるかどうか、自分でもわからなかった。
「行きたくなかった。モーリスを愛してなかったからじゃなくて、あまりにも苦しかったから。行ってイボンヌを支えなくちゃとわかっていたけれど、戸口まで行っても、まだ中に入れなかった。最後に決めたんだ、『見なくていいんなら中に入ろう、あの…ほら…あれを…』」  いまだにロビンは棺という言葉を口にすることができない。


「もちろん、ドアを開けたら、そこにあった。でも見てしまったら、これで一番つらいところはすんだんだと思った」

100人を超える友人たちが葬儀に参列したけれど、人前での喪の行為はロビンにとってつらいだけだった。
「ひどいものだった。まるで夢の中みたいに、口をきくことができなくて、ぼくは『決して思い出になんかできない。決して受け入れることなんかできない』みたいなことを言った。
ぼくは怒っていた。演壇に立ってモーの人生の楽しいエピソードを話したりすることなんかできなかった。モーリスがぼくからちぎりとられてしまったのに」
 

モーリスの死のタイミングはロビンにとって特につらいものだった。結婚の躓き、ドラッグやアルコール中毒などが原因で兄弟の絆が破れそうになった時期を経て、ロビンとモーリスはこれまで以上に親密になっていた。
「この業界には多いけれど、若いころにはモーリスも飲酒問題に苦しんだ」とロビンはいう。「でもモーリスは何年も前に酒は止めていた。すごく健康だった。今回のことがあるまで検査の結果もいつも良好で、幸せな家庭を築いていた。
ほんの数週間前に電話で話したときも、いろいろと話してくれて、いつマイアミにもどってくるの、って聞くから、正月がすんでからもどるよ、って答えた。
そうしたらモーリスが『なるべく1月の第2週までに帰ってこいよ。みんなで今年の予定を決めようよ』っていったので、『いいよ』って答えた。もちろん、ぼくは1月の第2週にモーリスの葬儀に出るためにマイアミにもどった」

ロビンは葬儀ののち数日マイアミにとどまったが、しだいに耐えられなくなって、1週間もしないうちにイギリスにもどった。
 

「とてもあそこにはいられなかった」とロビンはいう。「今でもマイアミはとてもつらい場所だ。うちのドックから病院が見える。あそこに立って見ることなんかできない。
愛する人は別の世界で生き続けていると信じる人がいるのだから、モーリスがこの世に生きているとぼくが信じていてもいいじゃないか。アーティストというのは芸術を使って現実から逃避する人種だ。何も悪いことじゃない。生き延びるためだ。モーリスが生きている世界をぼくが考え出してもいいわけだ」


音楽活動はロビンにとって大きなセラピーになった。最新シングル「A Lover’s Prayer」(訳注:アリステア・グリフィンと歌った「My Lover's Prayer」のことです)は9月末に発売される。
その後、モーリスなしの最初のビー・ジーズのアルバムのための曲作りがバリーと一緒に始まる。その一方でロビンはBBCの『フェーム・アカデミー』に審査員のひとりとして出演している。ロビンは、兄や弟と共有してきた音楽への情熱をきわめ、大切に育てていこうと決意している。最近、かけだし時代を思い出させるできごとがあった。
 

「車でロンドンに向かっていたら、ラジオ2がビー・ジーズ・ストーリーを流していた。ぼくたちが作ったデモが流れてから、モーリスの話す声が聞こえた。ふいにまた、あのどうしようもない無力感と認められないという気持ちがどっとわきあがってきた。こんなこと、決して認められない。でも、慣れてはいく。モーなしで生きていくことには決して慣れることはないけれど、モーリスがああなった前後の状況については、もう前ほどつらくない。前ほど生々しくない」


そのほかにもうひとつ、ギブ兄弟が解決した困難がある。ビー・ジーズをどう続けていくべきか、という問題だ。「最初のころ、バリーもぼくも、もし活動を続けるにしても、ビー・ジーズという名前を使い続けるべきなのか、それともただバリー・アンド・ロビンにするべきなのか、決められなかった。
でも今はビー・ジーズとして続けていこうと決めた。それでやっていける、という気持ちになれたし、モーリスもそれを望んだと思うから。
モーリスがキーボードでコードをちょこちょこっと弾いたのがきっかけで生まれた曲が何曲もある。モーリスみたいに、ちょこちょこっと、魔法のようなメロディを弾いてみせることができるやつなんかいない。モーリスはビー・ジーズの一部だった。だからぼくたちの音楽の中にはいつもモーリスがいる。
ぼくたちはモーリスを失ったけれど、モーリスのひらめきはいつまでもぼくたちと一緒だ」

               (レベッカ・ハーディ: デイリー・メール紙)

実はこの記事を訳すのは二度目でした。一度目に訳したのは記事が出て間もない、今から10年と少し前です。その時のファイルを紛失してしまったので、今回思い切ってまた訳しましたが、そのロビンも亡くなった今となっては、ロビンの悲しみがいっそう胸に迫ります。当初、ギブ家側は病院の医療ミスを主張しましたが、最終的に訴訟にはいたりませんでした。ただ、ロビンの根深い医療不信はこの時に生まれたようで、それが彼自身の闘病の過程で、治療に致命的な遅れを生んだと言われており、あまりにも残念で言葉を失います。

モーリスの死の経緯については、テレビ『検死報告』シリーズでも取り上げられ、昨春に日本でも放映されました。

{Bee Gees Days}
 

 

Words

モーリスはぼくの人生の一部だった。

ロビン・ギブ