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【2017年11月15日】「『サタデー・ナイト・フィーバー』40周年を語る(その2)

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映画『サタデー・ナイト・フィーバー』海外版予告編

Albumism.comの記事「『サタデー・ナイト・フィーバー』40周年を語る」(その2)を簡単に(とはいえ、長いですけど…)まとめてご紹介します。

 「モア・ザン・ア・ウーマン」のビー・ジーズ・バージョンがサウンドトラックからの第5弾シングルになる予定だったのかどうか、長らく取沙汰されてきた。ガルーテンによれば、シングル化予定があったのはタヴァレス・バージョンだけだそうだ。「ビー・ジーズが3曲、それにイヴォンヌ・エリマンに書いた曲が1曲、タヴァレスのために書いた曲が1曲という予定でした。イヴォンヌの’アイ・キャント・ハヴ・ユー’’モア・ザン・ア・ウーマン’はどちらも他のアーティスト用のデモでした」タヴァレスのシングルはアメリカでトップ40入りするマイナー・ヒットになった。彼らは1979年のグラミー賞で「アルバム・オブ・ジ・イヤー」をビー・ジーズ等と分かち合うことにもなる。シングル化はされなかったが、ビージーズ・バージョンは、サウンドトラック・アルバムから発売された他のビー・ジーズの他のシングルとともに盛大にラジオやテレビから流された。

アルバム『サタデー・ナイト・フィーバー』からの5枚目にして最後のシングルとなった「アイ・キャント・ハヴ・ユー」は、1978年5月に全米ナンバーワンに輝いた。非常に優れたポップ・レコードで、初期ジャクソン5の一連のヒットを指導したことで知られる、モータウンの伝説的プロダクション・チーム、ザ・コーポレーションのメンバーでもあるベテラン・ミュージシャンのフレディー・ペレンのディレクションが素晴らしい。「アイ・キャント・ハヴ・ユー」は変わったパターンの曲だった。ギブ兄弟が他のアーティストに提供した曲ではあるが、ギブ兄弟も彼らの関係者(コ・プロデューサーたち)もその後の作業には関知していないからだ。以降、彼らが他のアーティストのために書いた曲のほとんどは、このパターンではない。原型となったビー・ジーズ自身のバージョンは、シングル「ステイン・アライヴ」のB面におさまり、1979年のコンピレーション『Greatest』に収められた。これ以外にフィーバーのセッション中に作られたことが知られているビー・ジーズの曲には、当初はリリースされなかった「ウォーム・ライド」がある。

ガルーテンによれば、「ウォーム・ライド」をアルバムに入れる予定はまったくなかったそうだ。「ロジャー・ダルトレーが曲を探しているとどこかで聞いたんです。だからロジャー用にささっとまとめたんだけど、結局、ロジャーの気に入らなかった。ビー・ジーズが歌う予定は初めからなかった」というのだ。ビー・ジーズ自身のラフなデモは2007年『Greatest』の拡大版に収められてリリースされたが、ぱっと聞くとテンポもトーンも「恋のナイト・フィーバー」によく似ている。ダルトレーはリジェクトした曲だが、1978年~1980年の間に、グレアム・ボネット、レア・アース、アンディ・ギブによってさまざまなバージョンがレコーディングされた。

「面白いことに、バリーにとっては、他の人のために曲を書くということがいつも良い刺激になっていた」とガルーテンは言う。「だから'ラヴ・サムバディ’を書いたときも、『これはオーティス・レディングのために書いているんだ』って思ってたんでしょうね。『これはオーティスにぴったりの曲』だっていう感じに。それに、ほんとにオーティスにぴったりだったと思う。あとになって、僕たちがストライサンドとかディオンヌ・ワーウィック、ケニー・ロジャース、ダイアナ・ロスとかの仕事をしたときにも、バリーが特定の誰かのために曲を作るのが好きだから、という側面がありました。バリーは、とにかくただ書くっていうんじゃなくて、何か企画があるのが好きなんですね。ダイアン・ウォーレンとかがそのタイプだけど、『毎朝6時に起床して、1日に6時間書く。書かずにいられないから』っていう書き手もいますよね。ところがバッハなんかは、『できればいつも、まず仕事として受けてから曲を書きたい』と発言してます。だから、『わかりました。XXのためのオルガン曲ですね』とか言って書いちゃうわけだ。バリーも曲を書くためには特定の目的がある方を好んだので、ロバート(スティグウッド)に『’グリース’の主題歌を書いてくれ』とか言われると、すぐにその目的に集中して、そして何か革新的でクリエーティブなものを書いちゃうんですよ。自分の世界をそのレンズを通して見ちゃう。あるいは、その特定の世界をバリーのレンズを通して見ちゃう」

1977年末、『サタデー・ナイト・フィーバー』の映画とサウンドトラックが登場すると、空前(そしておそらくは絶後)の大反響があった。映画は比較的低予算で制作されていた(製作費350万ドル)し、キャストも、トニー役を演じる前から上昇気流に乗っていたジョン・トラボルタ以外はみな無名だった。最終的に、映画はアメリカで収益2億3700万ドルをたたきだし、文句なしの大成功となる。

日が暮れてから、音楽、ドラッグ、セックス、アルコールの跋扈するディスコで生きるという、かつてはサブカルチャーだったイメージが、この映画によって日の当たる場所に押し出されていった。『ディスコ』時代の持つ政治的、社会的な意味は、魅惑的であると同時に、どす黒い面も持っている。映画には人種差別、女性蔑視、同性愛への嫌悪、階級差別等の深い闇が描かれ、性的暴力も登場する。(この映画も含む)1970年代のアメリカ文化は、後年、無意味なものとして切り捨てられてしまったが、実は非常に複雑な要素があって、単なる回顧趣味を超えてきちんと解析する必要があると思われる。

このサウンドトラックの商業的なインパクトには驚くべきものがある。現在までにアルバム『サタデー・ナイト・フィーバー』の売り上げは5000万枚超。1978年前半だけで、アルバム『サタデー・ナイト・フィーバー』からシングル化されたビー・ジーズの曲は、ビルボード誌の全米100シングル・チャートのナンバー・ワンのスポットを14週間も独占した。ビー・ジーズが書いた曲、プロデュースした曲で、同時期に1位を記録したものも加えると、実に26週中の19週までチャートのトップを占めていたことになる。3月に、ビー・ジーズはビルボードのトップ10中5曲までを彼らの曲で占めるという、それまでビートルズ以外には誰も成し遂げていなかった記録を達成する。

ギブ兄弟は、その年の大半を、自分たち自身の曲と競う形になった。ほかにライバルになるような相手がいなかったからだ。なにしろ、信じられないようなことの連続だった。1977年12月24日、「愛はきらめきの中に」が1位になる(3週連続1位)。同じRSOのプレイヤーの「ベイビー・カム・バック」に短いあいだ1位の座を明け渡したビー・ジーズだったが、1978年2月4日、「ステイン・アライヴ」で1位の座を再び奪取(4週連続1位)。そのビー・ジーズから1位の座を奪ったのが、これまたアンディ・ギブの「愛の面影((Love Is) Thicker Than Water)」。「愛の面影」が1位の座からすべりおちると、今度はビー・ジーズが「恋のナイト・フィーバー」で返り咲く。「恋のナイト・フィーバー」は8週連続1位。続いて1位になったのが、今度はギブ兄弟が書いたイヴォンヌ・エリマンの「アイ・キャント・ハヴ・ユー」。その約1ヶ月後にはアンディが「シャドー・ダンシング」で1位(7週連続)。この年が終わるまでに、バリー・ギブが書いてフランキー・ヴァリが歌った「グリース」も1位になっている(2週連続)。さらにアンディ・ギブのシングル2枚「永遠の愛」「愛を捨てないで」、それにバリーとロビンがオーストラリア出身のサマンサ・サングのために書いた「愛のエモーション」もトップ10入りを果たした。

サウンドトラック・アルバムには、ビー・ジーズの曲以外では、アメリカの作曲家デヴィッド・シャイアに依頼したスコアや、過去2年の間にチャートをにぎわせたトランプスの「ディスコ・インフェルノ」クール・アンド・ザ・ギャングの「開けゴマ」などおなじみのディスコ・ナンバーが収められていた。これらの作品を提供したアーティストは、映画とサウンドトラックに使用されたことによる宣伝効果はあったかもしれないが、アルバムの爆発的な売れ行きによる金銭的な恩恵には浴さなかった可能性が高い。「あれほど収益性の高かったレコードはないんじゃないか」とガルーテンは言う。「ダブル・アルバムだったし、ロバートがデヴィッド・シャイアにどのぐらいライセンス料を払ったのか知らないけれど、’禿山の一夜’みたいな曲はアルバムの尺をあわせるための埋め曲でしたからね。もちろんシャイアはいい仕事をしたし、どれも良い曲だけれど、ポップスの曲じゃない。KCとサンシャイン・バンドの’ブギー・シューズ’みたいなヒット曲も数曲入れて、あとは安くあげようという計画だった。(スティグウッド)がラルフ・マクドナルドの曲(「カリプソ・ブレイクダウン」)みたいな曲に払ったライセンス料は、ほんとに少額だったと聞いたと思います。

しっかりと版権使用料を払った相手はメジャーなアーティストだけ。タヴァレスとイヴォンヌ・エリマンなんか、どんな契約だったもんだか。当時はまだ大ヒットを持っていなかったから、ライセンス料もすごく安かったろうと思いますよ。あのアルバムで大儲けしたのは、ライターだったので版権使用料が決まっていて、交渉の余地がなかったビー・ジーズ以外では、ロバートとRSOですよ」

『サタデー・ナイト・フィーバー』のサウンドトラック用に作業に参加した楽曲が、単なるヒット曲以上のものだと気づいたのはいつですか? そうガルーテンに聞いてみると、最初から、これは特別な楽曲だ、と思ったという答えが返ってきた。「本当に素晴らしい曲ばかりでしたからね。僕たちみんなすごく集中して取り組んだし。だってフランスって何もないところだったんだもん。知り合いもいないし、ど田舎だし。朝起きるとスタジオに入って一日いるしかないんですよ。ほかにすることがなかったから。すごい曲だったのは自分たちでもわかってました。『すごい! これは絶対にヒットする』っていう感触がありましたね。

『ナイト・フィーバー』っていう表現ひとつとってもね、誰もそれまでに使ってない表現だったんですよ。それから『ステイン・アライヴ』(生き延びる)というイメージを、ベトナム戦争とかじゃなくて、ニューヨークのストリートの日常と結びつけた人もそれまではいなかった。ほんと、『すごい』というしかない。バリーにはそういう才能があった。誇張法といってもいいかもしれないけど、極端な形容詞を、もともとはありふれたものとうまく結びつけて、深い意味を作り出してみせるんだ」

どこにいってもビー・ジーズの曲であふれていた1978年、ビー・ジーズ自身はほとんど人前に姿を現さず、『サタデー・ナイト・フィーバー』のためのコンサート・ツアーも実施されなかった。1978年3月、チャート制覇の頂点にあったビー・ジーズはスタジオ入りしてアルバム作りにとりかかる。後の『失われた愛の世界(Spirits Having Flown)』である。フィーバーの曲が大成功した後では、次もうまくいくかどうか不安があったのでは、と聞いてみると、ガルーテンは、そんなことはない、と言う。「若さゆえの傲慢さに守られてたんだと思いますね。曲作りをしながら、『これ、ヒットするかな』じゃなくて、『何週連続1位になるか』の賭けとかしてましたもんね。ですから、スタジオ入りするのに不安はなかったか、という質問に対する答えは『ノー』です。僕たちは燃えてました」

『サタデー・ナイト・フィーバー』の音楽に対する一般の興味・好意、そしてそれに結びついた形でのビー・ジーズの人気は、長いあいだに浮き沈みを経た。中でももっとも痛烈を極めたと思われる『フィーバー』とビー・ジーズの否定は、1979年7月にシカゴのコミスキー・パークで実施された『ディスコをぶっこわせNight』という野球ファンのイベントだろう。地元のラジオ局WLUP-FMが、スタジアムにディスコのレコードを持ってきてフィールドで燃やしたファンに対して、シカゴ・ホワイト・ソックスとデトロイト・タイガースのダブル・ヘッダーのチケットを98セントで提供したのだ。ほとんど暴動のような騒ぎになり、これはこうした音楽、あるいはこうした音楽を生んだともいえる文化的・社会的存在を叩きのめそうという行為ではないのか、と感じた者も多かった。ギブ兄弟自身は、1980年代を通じて過激な反動にさらされたことで挫折感を味わい、『フィーバー』への関与を自ら否定したこともある。1988年にローリング・ストーン誌に「ステイン・アライヴ」について聞かれたとき、ビー・ジーズの返答は「白いスーツを着せて燃やしてしまいたい」というジョークだった。

それでも偉大な音楽は不滅であり(そう、私はビー・ジーズがこのサウンドトラックに提供した曲は間違いなく偉大だと思っている)、最近ではノスタルジアの要素が『サタデー・ナイト・フィーバー』の音楽に好意的に働いているようだ。ガルーテンは、40年後のいまも、あのサウンドトラックと映画には大きな意義があると信じている。「人間が影響を受ける音楽って高校や大学時代に聞いた音楽なんでしょうね。30とか、40とか、50とか、60になっても、腹の底から、気持ちを強く揺さぶられる音楽というのは、もっと年齢がいってから聞いた音楽じゃなくて、ティーンエージャーのころに聞いていた音楽なんです。いろんな年代の人に、好きな音楽は何だ、と聞いてごらんなさい。音楽の趣味じゃなくて、その音楽が流行った時に何歳だったか、というところに共通項があるんです。だからあの時代に育った人たちにとっては、あれはすごく大事な音楽なんですよ。

音楽が大勢の人間の心に届くのは、音楽が、それまでは声のない存在だった人たちに新たに声を与えた時です。ビートルズは思春期の若者たちに声を与え、モータウンとスタックスは声なき存在だった人たちに声を与えた。ヒップポップも同様です。じゃあ『”サタデー・ナイト・フィーバー』は誰に声を与えたんだろう、っていつも思うんです。すると、あ、そうか、と思うのですが、それまでは表現手段を持たず、誰にも代弁してもらえなかったアメリカの労働者階級なんだ、と。『毎日の暮らしはぱっとしないけれど、土曜の夜に出かければ、っていうところに共感できる。これって、おれのことだ』って言う感じがあるんですよ」

                                                                       by Grant Walters

取材相手がガルーテンなので、ガルーテンの視点に偏りすぎているという難点はありますが、白熱の時代をビー・ジーズと共有したプロデューサーの言葉には独特の重みがあります。

面白いのは、(ガルーテン自身も「面白い」と発言しているように)「バリーは企画ありき、と言う形で仕事をする人だった」ということ。これは最近の一連の『イン・ザ・ナウ』インタビューなどでバリー自身が、「他の人と組んでチームで作業をする方が好きだし、良い仕事ができる」と発言していることとも関わりがあり、バリー・ギブという独特な才能を語る上で貴重な観点だろうと思います。

スタイルの変遷はビー・ジーズの大きな特徴として語られ、ある程度どんなスタイルでも注文に応じて書けるので、彼らの仕事は「優れた職人芸」にもたとえられてきました。そういう意味で職人気質がもっとも強かったのは、長男として、「一家を(経済的にも)支える」という意識を強く持っていたバリーなのかもしれません。

サイレント・マジョリティともいわれたアメリカの労働者大衆に声を与えた映画だとガルーテンが語る『サタデー・ナイト・フィーバー』。国家的な分断が懸念され、不安が渦巻く現代に、この映画が語りかけることはまだまだ多いのかもしれません。

{Bee Gees Days}
 

 

Words

いつか死んだら僕はあそこで眠りたい。モートン島に埋めてくれ。

バリー・ギブ(2016年)