Bee Gees Days

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ここから始まったーービー・ジーズ「ジャイヴ・トーキン」を分析する

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「The Number Ones」より

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ビルボード・ホット100チャートで1位に輝いた曲を1958年から始めて現在まで順に辿るというオンラインの音楽レビューコラム「The Number Ones」が、2019年8月1日付でビー・ジーズの「ジャイヴ・トーキン」を取り上げました。

そう、「ジャイヴ・トーキン」は44年前の8月、つまり1975年8月に2週にわたってビルボード・チャート1位に輝いて、ビー・ジーズの「返り咲き」を告げたのです。

これはこの曲の歴史的意義に着目した、なかなか見事な面白いレビューなので、以下にざっとご紹介いたします。

 

The Bee Gees – “Jive Talkin'”

1975年8月9日にナンバーワン達成。(2週連続ナンバーワン)

1975年はイギリスの白人ミュージシャンがブラック・アメリカン・ミュージックに傾倒し、独自の色をつけて表現することに懸命になった年だった。エルトン・ジョンの 「Philadelphia Freedom」、アベレージ・ホワイト・バンドの「Pick Up The Pieces」、近くこのコラムで取り上げる予定のデヴィッド・ボウイの曲(訳注 75年9月に1位になった「Fame」を指すのでしょう)等々だ。どれも素晴らしい曲だし、重要な曲だ。しかし、商業的なパワーという点では、どの曲も、ディスコに進出し、その過程ですべてを飲みこむ一大現象となったビー・ジーズとは比べものにならない

ポップス・チャートを席巻したという意味ではビー・ジーズは70年代のビートルズと呼ばれるのにもっともふさわしい存在だ。ディスコ以前のビー・ジーズも成功したグループではあり、ナンバーワン・ヒットも出している(1971年の「傷心の日々」)。しかしディスコ転向後の彼らは短いあいだではあるが、問答無用の絶対的な存在だった。70年代後半のビー・ジーズは8曲をナンバーワンに送り込み、実に23週間チャート1位を独占している。これは70年代を通じて最高の業績で、しかも弟のアンディなど他のアーティストのために彼らが書いたりプロデュースしたりした曲を数に入れずに、である。ビー・ジーズがピークに達した1978年には、ビー・ジーズ関連の曲が1位だった時の方が多いぐらいである。この完全制覇の時期はあっという間に終わったが、それでもものすごいことだった。そのはじまりにあたるのがこの「ジャイヴ・トーキン」なのだ。
ビー・ジーズにはそれ以前のフォーク・ロック時代から、3兄弟のこの世のものとも思えない高音が互いに響きあう歌い方に、ソウルの要素があった。けれどもグループのR&B(当時はまだディスコと呼ばれていなかった)転向は、突然の、しかも意識的な決断だった。アトランティックと契約したビー・ジーズはそれまで数年間スランプ状態にあった。新レーベルのボスだったアーメット・アーティガンが、「Pick Up The Pieces」でアベレージ・ホワイト・バンドを生き返らせたアリフ・マーディンにビー・ジーズを引き合わせた。マーディンがビー・ジーズを白人のR&Bグループに生まれ変わらせたのである。ビー・ジーズはクラブ・カルチャーが力を持っていたマイアミに居を移した。そして突如として、ビー・ジーズはビートを発見したのだった。
ビー・ジーズは、あのとんでもないフォー・オン・ザ・フロア(4つ打ち)のリズムをマイアミのジュリア・タトル・コーズウェイを渡るときに車が出した音から着想したといっている。個人的には、この話は少し眉唾ものだと思っている。ギブ兄弟はクラブでどんなビートが求められているか知らなかったかもしれないが、アリフ・マーディンが知らなかったはずはない。どちらにしても、もともと「ドライヴ・トーキング」というタイトルだった曲を「ジャイヴ・トーキン」にするようにアドバイスしたのはマーディンだ。最初に曲を書いたとき、ビー・ジーズは「ジャイヴ・トーキング」というのはダンスの一種だと思っていた。そこでマーディンから「いや、あれは“嘘っぱち”という意味だ」と言われて、ああ、そうだったのか、と曲を書きなおした。ブラック・アメリカンの口語を知らなかったので、間違った曲を書いてしまったのだ。
ビー・ジーズはいわゆる「カルチャーのハゲタカ」だという人もいるだろう。それは間違ってもいない。フォーク・ロック・バラードの歌い手として行き詰まっていた彼らはゲイとブラックのクラブ・カルチャーから生まれたアンダーグランド音楽のニューウェイブをうまく利用して大成功したのだ。ビー・ジーズ自身はディスコを生んだ文化の出身者ではない。そんな文化のことなんか、何ひとつ知らなかった。それなのにその後2年もすると、彼らはまんまとそのジャンルを代表する顔になっていた。これは音楽業界ではおなじみのストーリーである。金持ちの白人ロックスターが、社会の周辺で生きる人たちの音楽を自分のものにしてしまう。だからビー・ジーズは嫌いだ、という人は多い。それも一理ある。だけど、ビー・ジーズが生み出したディスコ音楽はあまりにも素晴らしいので、それを否定することはできない。彼らはサウンドに手を加えて自分たちの声に合うようにし、その過程でディスコをポップスの中心的位置まで引き上げたのだ。
「ジャイヴ・トーキン」のビー・ジーズはまだディスコ・サウンドを手探りしている状態だ。「ジャイヴ・トーキン」が入っているアルバム『メイン・コース』のほぼ半分は眠くなるようなバラードである。バリー・ギブは、これも『メイン・コース』に入っている「ブロードウェイの夜」で、マーディンに言われるまで、耳をつんざくようなあのファルセットをフルパワーで発揮するにいたっていなかった。(「ブロードウェイの夜」は最高位7位である)。この曲のアウトロでバリーが歌うアドリブを聴いたマーディンが「カナキリ声で歌えるか」と訊ねた。歌えます、というわけで、以降、バリーはカナキリ声で歌い続けた。「ジャイヴ・トーキン」でも高音を聴かせているが、まだ本領を発揮するにはいたっていない。「ジャイヴ・トーキン」のリズムは不安定なストラットで、後のビー・ジーズが到達するあのしなやかな足取りはまだ生まれていない。
それでも「ジャイヴ・トーキン」は間違いなく洗練された曲で、ビー・ジーズにとっては巨大な一歩だった。スタジオで作られたレコードなので、モーリス・ギブがオーバーダビングしたシンセ・ベース(訳注 実際にはデニス・ブライオンだと言われています。モーリスのベースも入っています)など、ビッグ・サウンドやしゃれた飾りがいっぱい入っている。自信たっぷりの優雅さで盛り上がってゆき、流れるようなギターのスクラッチ音と鮮やかなキーボード音がラウドにハードにひびきわたる。完璧な職人芸である。ハンドクラップ、ティンバレス、甲高いハーモニーのどれもが、すべて完璧なタイミングで入っている。
「ジャイヴ・トーキン」では、ひとつのベテラン・グループはついに自分たちの声を見つけ、金の鉱脈を探り当てた瞬間を聴くことができる。このレコードには自信が満ち満ちている。バリーはよほど自信がなければシンセサイザーのリフにあわせてスキャットしようとは思わなかっただろう。それはしっかりと培われた自信である。ビー・ジーズは自分たちが何をしているのか、よく理解していた。そしてさらにその理解を深めてゆくのである。このサウンドにぴたりと照準を定め、磨きをかけて、完璧なものにしてゆく。けれどもそのそもそもの最初から、彼らは歌えと言われた言葉の意味さえ知らなかったとしても、サウンドは理解していた。そのサウンドをしっかりと自分たちのものにしていた。
 

アトランティックはラジオ局に「ジャイヴ・トーキン」を送るにあたり、何も情報を入れずにただの白ラベルで送った。ビー・ジーズやビー・ジーズの曲についての先入観なしに聴いて欲しかったからだ。ビー・ジーズは以前にも同じ手を使って成功したことがあった。1967年に彼らの出世作となった「ニューヨーク炭鉱の悲劇」発表に際しても同じ手を使ったのだ。1967年に功を奏した同じ手が、1975年に再び結果を生んだ。そして「ジャイヴ・トーキン」以降、ビー・ジーズは二度と同じ手を使う必要がなくなったのである。

採点 8点(10点満点)

おまけ
イギリスのオールスター・プロジェクト、ブギ・ボックス・ハイは1987年に「ジャイヴ・トーキン」のカバーで全英チャート・トップ10入りを果たしている。ブギ・ボックス・ハイの中心人物であるアンドロス・ジョルジオウのいとこだったジョージ;・マイケルが、ノークレジットでリードボーカルを歌っている。ブギ・ボックス・ハイ・バージョンのビデオはこちらで視聴できる。  

 

                                                                                                                (Tom Breihan)

これはべた褒めでもなければ、こきおろしでもない、歴史的観点も踏まえた、読みごたえのあるレビューでした。そして「ジャイヴ・トーキン」のヒットから4年後、ビー・ジーズは全米チャート制覇の勢いのなか、50都市を巡る一大ツアーを敢行していたのです。

{Bee Gees Days}