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【Mojo誌2001年6月号】”狂乱の60年代末”-ビージーズ・インタビュー

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1967年のギブ3兄弟(Mojo誌2001年6月号より)

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イギリスの音楽誌「Mojo」の2001年6月号―オーストラリアでの苦しい”徒弟”時代を経て、20歳になるかならないかで世界の舞台に躍り出た60年代末のビージーズ。日本でも大ヒットした「マサチューセッツ」をはじめ、驚異的なヒットを連発しながらも突然の大きな変化の中で歯車が狂い始めた日々を、大人になったビージーズが振り返ります。5月号、6月号と2号続いたロング・インタビューの完結編

Mojo誌(2001年六月号)

いろいろとありました

60年代を代表するソングライターだったビージーズ。しかし連続ヒットの影には、オーストラリアへの強制送還、覚せい剤使用、列車事故、兄弟間のライバル意識など、さまざまな問題が潜んでいた。「それぞれがリーダーになりたかったからね」 いま、ビージーズがジョニー・ブラックに語る。


1965年、復活祭。イギリスではストーンズの「The Last Time」が1位に輝き、アメリカではビートルズとシュプリームスがトップ争いを繰り広げていた。そのころ、ビージーズはシドニー(オーストラリア)のロイヤル・イースター・ショーで、牛の群れとひげのある大女にはさまれ、現地の農家の人たちの喝采を浴びていた。
「客引きが『さあ、いらっしゃい、いらっしゃい、頭がふたつある女とヘビ使いとビージーズだよ~』って呼び込みをしていたなあ」とバリー・ギブは追憶にふける。「まるでサーカスみたいだったけど、実は毎年ある農産物のフェアで、呼びものは羊と牛とトラクター。ずらっとならんだテントは、みんな見世物小屋だった」
ビートルズがハンブルグのバーで修業したように、オーストラリアで成功を夢見ていたティーン時代のビージーズも、干草の山に囲まれたイースターのショーで、1回5曲1日20回の荒行をこなしていた。それができたのも金ほしさからだったとはいえ、ビートルズ同様にバリー、モーリス、ロビンのギブ3兄弟にも金以外の望みがあった。「薬屋で買える興奮剤があって、ぼくらは液体メセドリンが気に入っていた。いまは覚せい剤の一種として有名な、あれだよ。当時は完全に合法だったんで、危険だなんてまったく知らなかった」
続く5年の間に、覚せい剤がギブ兄弟の仲に暗い影を落とすことになる。
長男のバリーは1946年9月1日、マン島ダグラス生まれ。ふたごのロビンとモーリスはその3年後に生まれた。母親のバーバラは歌手、父親のヒューイはリバプール/ダグラス間のフェリーで演奏するダンスバンドのリーダーだった。「家中、グレン・ミラー・オーケストラやミルズ・ブラザースのレコードから流れる音楽でいっぱいだった」とモーリス。「親父がクロース・ハーモニーが好きで、ぼくたちにもやり方を教えてくれた」
バンドの景気が悪くなると、一家はマンチェスターに引っ越した。ヒューイの収入はあいかわらずぱっとしなかったが、幼い息子たちへの特訓が花開いたのは1957年のことだ。モーリスが覚えているのは、「チョールトン・カム・ハーディのケッペル・ロードに住んでて、地元にゴーモン・シネマがあった。フラッシュ・ゴードンが見たくて土曜ごとに通ってたんだけど、幕間に立ち上がって、エルビスのレコードにあわせて口パクするやつがいてさ。おれたちも、あれならできる、って思ったんだよ。次の週、トミー・スティールの『Butterfingers』を持って映画館に行った。レコードをかけて口パクするつもりだったんだ。ところがおれがレコードを落として割っちゃった」。
映画館いっぱいの腕白どもが待ちかまえるなか、劇場のマネージャーは「とにかく何かやってくれ」とせっついた。「バリーがギターを持ってたんで、おれたちは家でいつも歌ってるやつをやった。『Lollipop』、『Book of Love』、『Putting On The Style』とかね。そうしたらみんな総立ちで拍手してくれた」
クロース・ハーモニーだけでなく、将来、ビージーズのトレードマークとなるものが、もうひとつすでに芽生えていた。「その前の年のクリスマスにバリーがギターをもらった。おれたちがチーズのあき箱や針金でギターを作ってたんで、親父が安いやつを買ってくれたんだ。親父の知り合いで軍隊にいた人がいて、オープンDのチューニングを教えてくれた。いまでもバリーがやってるやつだ」
3兄弟に友だち数人を加えてラトルスネークスが結成され、12月28日にゴーモン・シアターでプロとしての初コンサートが開かれた。ビージーズのはじまりである。「チョールトンを歩いてたら、バリーが、『おれたち、いつか有名になるんだ』って言うから、おれたちは『うん』って言った。みんな、本気だった」とモーリス。
だがしばらくの間は、悪の道もなかなかもうかってよさそうに思われた。最初は姉のレズリーと一緒に学校をさぼる程度だったが、兄弟の悪行はどんどんエスカレートしていった。「おれが一番のいい子ちゃんだったよ」とモーリス。「ただ1度の犯行というのが、よそのうちの玄関口からオレンジジュースのびんを盗んだことだったんだけど、それでつかまって、3人の警察官が家までついてきた。ところがバリーとロビンときたら、ウルワースのあっちでもこっちでもくすねて、1度もつかまったことがなかった」 万引きは押し入りとメーター泥棒にエスカレートし、バリーは2年間の保護観察処分を受け、バリーより年上だった共犯の少年は刑務所送りになった。
事態が最悪の様相を呈したのは、地元の警官がギブ家のドアをたたいたときである。「ちょうど学校をさぼって家にいたんで、病気で寝てるふりをした」とモーリス。「警官が『息子さんたちは家にいますね?』と訊ねて親父が『はい』と答えるのが聞こえた。そうしたら警官が『巡査部長と話しましてね。オーストラリア移住の話があるんですが、移住しようと考えたことはありますか?』って言うんだよ」
息子を刑務所送りにするか、オーストラリアに移住するかの選択を迫られていることは明らかだった。ヒューイはしぶしぶと荷造りをし、一家は再び引っ越した。一家がオーストラリアに到着したのは1958年9月1日のことだ。幸い、新生活をスタートさせたギブ兄弟は音楽に専念し、ラウンジやバーでの演奏からはじまって、シドニー・スタジアムでチャビー・チェッカーの前座をつとめるまでになった。ついに1963年1月にはフェスティヴァル・レコードが彼らと契約をかわした。
フェスティヴァル・レコードから出した一連の曲はオーストラリアのチャートをにぎわせるにはいたらなかったとはいえ、ビージーズは自作自演のバンドになった。それだけでなく、他のアーティストが彼らの曲をカバーするようにもなっていた。オーストラリアきってのロックスター、コール・ジョイもそのひとりだった。
1966年になってビージーズは、彼らにオーストラリア初のナンバーワン・ヒットを出させてくれる男と出会う。「オシー・バーンはシドニーのハーストヴィルに肉屋を改装したスタジオを持っていた」とモーリス。「ぜんぶオープンリールだった。1本のテープにバックを入れて、それを下の段でかけて、上の段に空テープを入れる。で、歌いながら、ミキシングしていくわけだ。その曲が『スピックス・アンド・スペックス』だよ」
けれどもビージーズはもっと広い地平を見つめていた。同年代のバンドの中にイージービーツがいた。「知り合いだったんだ」とバリー。「彼らがイギリスに渡ってヒットを飛ばしたとき、『あいつらにできるなら、おれたちにだってできる』って思った。みんなは無理だと言って、思いとどまるようにアドバイスしてくれたんだけど、ぼくらはイギリスに行こうと決めてた」 ヒューイは、オーストラリア時代のシングル、他のアーティストがカバーしたビージーズの作品、さらには最新作のテープを、すべてまとめて、当時のイギリスの音楽界の頂点めがけてじかに送りつけた。ビートルズのマネージャー、ブライアン・エプスタインである。
13枚目のシングル『スピックス・アンド・スペックス』が地元チャートで伸びていた。エプスタインからは何の返事もない。だが、それでもビージーズは1967年1月3日にイギリスを目指して船旅の途についた。
「途中、インドや中東に寄ったよ。カイロとか、ピラミッドとか」とバリー。「裏通りのバザーで売られているものときたら! デキセドリン(訳注:覚せい剤の一種)がボトル単位で買えるし、興奮剤だってなんだってある。言えばすぐに売ってくれる。船の上のぼくたちは、ずっとぶっとんでた」
ビージーズのイギリス入りに先立って、『スピックス・アンド・スペックス』がついにオーストラリアでナンバーワンになっていた。が、この事実もロンドンでは、ほとんど無意味だった。「デンマーク・ストリートをとぼとぼ歩いてたら、シーカーズのマネージャーやクリフ・リチャードのマネージャーに会って、誰も彼もが、おれたちに、『時間の無駄だ』、『グループは時代遅れだ』って言うんだよ。ヘンドンのセミディタッチトに泊まって、どうしようかなあって思ってたら、おふくろが『ロバート・スティックウィードっていう人から電話があったわよ』って言った。そりゃいったい誰だよ、って思った」とモーリス。
スティックウィードというのは、もちろん、ロバート・スティグウッド。当時、彼はブライアン・エプスタインのネムズ帝国で常務を務めていた。ビートルズ風のハーモニーにひかれた彼は、ビージーズをオフィスへと招待する。「彼、エドワード王朝の人みたいだったなあ」とバリーは記憶をたぐる。「もみあげを伸ばして、ベルベットの襟がついたジャケットを着て、オスカー・ワイルドをもっと白髪にした感じ。アーガイル・ストリートのパラディアムの隣にある彼のオフィスに行ったら、カーナビー・ストリートで着るものを買いなさいって、ひとりに200ポンドずつくれたよ」
のちのち衣装に凝ることで知られるビージーズとしては、ここぞとばかり、お揃いのケープと前にバックルがついた帽子を調達して、オフィスに戻った。「ぼくは黒マントに剣とタイツの僧侶ルックで決めていた」とバリー。「だけど、ネムズのエレベーターに乗ったら、中で完璧なカウボーイルックで決めたエリック・クラプトンにバッタリ。ネムズのエレベーターがぎしぎしいいながらゆっくりと上がっていく間、中では変な格好をした若者たちが、お互いにじろじろと見つめ合って、ひとことも発しなかった、とこういうわけさ」
2月24日、ビージーズはひとり当たり1週間25ポンドの給料でネムズと5年契約を交わした。ビージーズのライブを見たかったスティグウッドは、エプスタインが所有していたロンドンのサビル・シアターで、ファッツ・ドミノの第1回イギリス公演初日の前座をつとめさせた。「その1週間前にコリン・ピーターセンとヴィンス・メローニーと一緒にバンドを組んだばかりだった。まだ準備も何もできてなかったけれど、とにかく前座として出たよ。革ジャンのバイク野郎や不良で埋め尽くされた観客が望んでたのは、ただひとつ、とにかく『早くファッツ・ドミノを出せ~』。てなわけで、ミサイルは飛ぶは、ロビンに卵はあたるは、という騒ぎになった」
それでもレコード・ミラー紙はビージーズのことを「魅力的なオーストラリアのグループで、リードシンガーが素晴らしい」と書いた。しかも嬉しいことに、ポール・マッカートニーがボックス席から彼らを見ていて、あとで賛辞を呈してくれた。
数週間のうちに、スティグウッドの庇護のもと、ビージーズは、ビートルズ、ストーンズ、ザ・フーなどとともにスピークイージーの常連になった。「スピークイージーはすごいところだった。入り口が棺おけになってて、壁が回転して中に入れる仕組みでになってて」とバリー。「ピート・タウンゼントがジョン・レノンに紹介してくれた。ジョンはサージェント・ペッパーのかっこうをして、話に夢中だった。レノンはモーリスとも仲よくなって、ビートルズのメロトロンの使い方を教えてくれた。貸してくれたんで、ファースト・アルバムに使ったよ」
ビージーズのイギリスでのシングル第一弾「ニューヨーク炭鉱の悲劇」が4月14日にポリドールから発売されると、マスコミは「1967年最大の新星登場」と書きたてた。「あの曲はオックスフォード・ストリートにあるポリドールの地下で、朝の4時に書いた」とロビン。「地下室にいると炭鉱の穴の底にいる気分だった。そんな雰囲気から想像をふくらませて、炭鉱の中に閉じ込められた鉱夫の歌を書いた」
「オープニングのコードはふつうのAマイナーみたいじゃないだろ」とモーリス。「バリーは9歳のときに教えられたオープンDのチューニングでずっとやってた。おれの方はふつうのチューニング。で、独特な効果が生まれた。なんで、あの音がまねできないんだろうって、みんなに言われたよ」
5月11日、「ニューヨーク炭鉱」が最高位12位に向けて躍進するなか、ビージーズは「トップ・オブ・ザ・ポップス」に初出演し、モーリスは将来の伴侶に出会う。「ルルは『The Boat That I Row』を歌ってた。にきびがあって、ちょっと太めだったけど、すぐに『いいな』って思ったよ。性格にひかれた。『ものにしたい』とか、そんなんじゃなくって、とにかく、あんなに生き生きと輝いている人ってそれまでに会ったことがなかったんだ」
一部のラジオ局が、彼らをビートルズの覆面バンドと勘違いして、発売前の一ヶ月にかけまくったこともあり、「ニューヨーク炭鉱」はアメリカでもヒット。「ビートルズと比較されること自体は問題じゃなかった」とモーリス。「名誉だった。でもそれがアメリカでのおれたちの躓きのもとになった」
3人とスティグウッドの間の絆はデビュー・アルバムの製作中にさらに強まり、単なるビジネスを超えた深い友情が生まれた。ロビンの思い出はこうだ。「ロバートはポートランド・プレースに近いドゥ・ウォールデン・コートに住んでいて、朝の4時にIBCスタジオまで歩いてぼくたちの歌を聞きに来た。ぼくたちのほうが、朝の3時に仕事を終えて、ロバートの家に歩いていって、いま作ったばかりの曲をナイトガウン姿のロバートに聞かせることもあった」
そんな関係から生まれたのが、1枚目のシングル「ラヴ・サムバディ」だ。「オーティス・レディングが歌うというイメージで書いた曲だけど」とバリー。「あれはロバートのために書いた。胸を張ってそう言えるよ。ロバートが自分のために曲を書いてくれっていうから、個人的に彼のために書いた。ニューヨークで書いてオーティスに聞かせてやったけれど、個人的にいえば、あれはロバートのための曲なんだ。彼はぼくにとって大きな存在だった。同性愛的な感情とかいうんじゃなくて、彼の持つすぐれた能力と才能に対する心からの愛情なんだ」
解散につながる要素はすでに生まれていた。バリーも言う通り、「ロビンとぼくは、覚せい剤とかをやっていたせいもあって、クリエイティブな意味でとても張りつめた状態にあった。若かったし、ハイになった状態でのほうが曲が書けるなら一晩中でも起きていたかった。しかも、ロバートとぼくが近すぎたことも問題だったと思う。モーリスとロビンは、ロバートがぼくばかりに関心を持っているように思っただろうし」
表面的には万事好調に思えた。デビュー・アルバム『ビージーズ・ファースト』は8月12日付けで英チャートに初登場、最高8位までのぼった。だが、そんななかで3兄弟は初めて別々に住むようになり、それぞれの女性関係が生まれ、違う仲間とつきあうようになった。とくにモーリスはスピークイージーの常連たちと飲酒の世界にどんどん深入りしていく。
8月25日金曜日、ロビンが(後に妻となる)秘書のモリー・ハリスをネムズのオフィスに訪ねていると、ブライアン・エプスタインが泣きながらやって来て、スティグウッドのオフィスに入っていった。「閉まったドアの向こうから、どなりあう声が聞こえてきた。ブライアンはまだ泣きながら出てきた。どうしたんです、って聞いたけど、今は話なんかできない、っていって、そのまま行ってしまった」
その直後、スティグウッドはロビンに、ビージーズはその晩モンテカルロに向けて発つことになった、と告げる。「ブライアンは、独りになりたくないと言って、その週末を一緒にサセックスで過ごしてくれとロバートに懇願したんだよ」とロビン。「ビートルズはマハリシと一緒にバンゴールに行ってて留守だった。で、ロバートはブライアンに『ノー』と言ったんだ」
日曜日、ビージーズと一緒にモンテカルロにいたスティグウッドのもとにエプスタインの死の知らせが届く。「ほんとに、ひどかった」 ロビンの思い出は続く。「ロバートが帰りの飛行機に乗れるように、ひどい状態だったけど真夜中に船で移動した。ブライアンが死んだのはロバートのせいじゃなかったけれど、あの晩、もし一緒に行っていれば、ブライアンも死ななかったかもしれないから、ロバートはひどく自分を責めていた」
スティグウッドは友人を失った打撃に加え、もうひとつのショックに出会う。ネムズ株の51%を買う権利が与えられるというエプスタインとの間の取り決めが、彼の死で無効になったのである。「ブライアンの弟のクライブがネムズを引きつぎ、数週間後にロバートは自分の会社ロバート・スティグウッド・オーガニゼーションをブルック・ストリート67番地に立ち上げた。ブライアンの死が招いた結果だ」
当然、ビージーズもスティグウッドとともにネムズを去り、10月11日には、「マサチューセッツ」が彼ら初の全英ナンバーワンに輝いた。そしてエプスタインの死のショックもさめやらぬある日、当時17歳だったロビンが死との接近遭遇をする。「ガイ・フォークスの夜(訳注:11月5日)で、『マサチューセッツ』がチャートインしていた。ぼくはモリーと一緒にヘイスティングズから帰るところだった。ルイシャムを抜けて、列車が加速しはじめると、岩がぶつかるようなガツンガツンという音が聞こえ始めた。で、ぼくは、この列車、脱線するんじゃないか、って言ったんだ。
そしたら、モリーが、『何言ってるの、いつもこの辺でスピードをあげるのよ』って言った。そのとたん、明りが消えて、列車がぐらっと揺れて、太い線路が1本、車両を突き抜けてぼくの顔のすぐわきをビューンってかすめていったよ。あと2インチずれていたら、ぼくは死んでいた。顔が切れたかと思うと、割れたガラスのかけらがシャワーのように降ってきた。車両全体が横倒しになって、悲鳴やうめき声でいっぱいになった」
乗客から49名の死者が出たヒザー・グリーンの列車事故である。ロビンとモリーは壊れた窓から這い出し、横転した車両の上を歩いて逃げた。「何人かを助け出した。モリーはあざだらけで憔悴しきっていた。ガラスのかけらがぼくの口や目や髪の毛に入って、何週間もとれなかった。で、思ったんだ。人間なんていつ死ぬかわからない。一瞬、一瞬を大切に生きなくちゃいけないって。精神的な体験というより、ぼくは、ただただ、すごく幸運だったんだと思う」
ギブ3兄弟の仲は、次第に険悪になっていた。この問題は、以後、数年間にわたって彼らを苦しめることになる。「ロビンとぼくは、リードシンガーとして一番に認めて欲しいと、常に争っていた」とバリーは認める。「モーリスの飲酒問題も始まっていた。ロビンとぼくは、ふたりとも覚せい剤に手を出していた。これが仲たがいの本当の原因だ。モーリスはヘビードリンカーに囲まれていたし、3人ともまるで別世界に住んでいるような状態になってしまった」
ペースを落として自分自身を見つめ直す時期に来ていたのだが、スケジュールがそれを許さなかった。次の目的地アメリカが待っていた。彼らは数回に絞ったコンサートとテレビ出演で、アメリカを征服する予定だった。ロビンは、ビージーズがエド・サリバン・ショーにデビューした1968年3月の午後のことを今でも覚えている。「モーリスがセント・レジス・ホテルのトイレから出られなくなっちゃって、ようやく引っ張り出せたのはぎりぎりの時間だった。しかも思うに、エドはあのとき、ちょっと変だった。ぼくたちを紹介するのに、『さて次はイギリスからやって来た偉大なるグループ、ケイリー・グラントです』って言ったもんね」
バリーもロビンと同意見だ。「ぼくらが誰だか知らないみたいだった。で、なんか、意味のない変なことばかり言うんだよ。なんか変って感じだった」
本国イギリスでは、ビージーズの地位を固めようと、スティグウッドが計画を練っていた。「ロンドン・シンフォニー・オーケストラと、40人編成の英国空軍の楽隊と60人編成の聖歌隊を従えて歌ったんだよ」とモーリス。1968年3月27日、ビージーズの1ヶ月にわたる英国公演の皮きりに、これだけの数のミュージシャンが、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールに集められたのである。「ほんと、生え抜きの、すごい顔ぶれのミュージシャンが、おれたちのために演奏しようと控えているのを見て、ぶっとんじゃった。途中、『ホリデイ』をやったときには、聖歌隊が客席の真ん中に立ち上がって歌い始めた。すごい眺めだった」
けれども十分なリハーサルができない状態では、バリーが言うように、「まるでアドリブみたい」なコンサートだった。コンサート評も芳しいとは言えず、どうやらビージーズは背伸びしすぎたようだ。「でも経験としてはプラスになった。貴重な教訓を学んだからね。『二度とやるな』ってさ」 その後の公演も満員続きというわけにはいかなかった。ツアーも終わりに近く、ロビンが「ノイローゼ」で倒れ、入院した。つまり、アメリカ公演が翌年の8月に持ち越されたというわけである。
「最初の公演地はフォレスト・ヒルズで、13,000人ぐらい入った」とバリー。「あそこで、ぼくは人生最良の出来事のひとつってやつを経験した。ショーの後、ぼくらがリムジンで帰ろうとしたら、女の子がぴったり車について走ってきてさ、車の中に手を入れて、ぼくのナニをつかんだんだよ。ぎゅっとつかんだまま、車について走ってくるんだ。でも、残念ながら、ぼくたちは行かなくちゃならなかった。それが、ポップ・ビジネスというものさ」
残るアメリカ・ツアーのチケット売り上げは、すさまじいまでの見込み違いに終わり、ロビンがノイローゼの再発を装ってキャンセルすることになった。9月、「獄中の手紙」がナンバーワンになって、イギリスでの人気は再び盛り上がったが、バリーがグループを離れ、映画に進出したいと発表するに及んで、グループ内の不和が明るみに出る。ところが、69年3月、バリーの荷造りがすまないうちに、ロビンの方が先にグループを出てしまった。「ぼくたちのそれぞれが、みんなリーダーになりたがってたから」というのがバリーの説明だ。「それぞれの取り巻きに、『君が最高だ』と吹き込まれてたからね。ぼくたち、まだ若くて信じやすかったんだよ」
ベルグラヴィアで昼食をとった後、べろんべろんに酔ったモーリスがロールスロイスのシルバークラウドをぶつけて、飲酒問題も浮上した。続く8月6日、モーリスはスティグウッドのオフィスで階段から落ちている。
2枚組のコンセプト・アルバム『オデッサ』を作っていた数ヶ月が、グループの解散にいたる最悪の時期だった。「最後には、お互いに口もきかなかった。別々にスタジオに入って、お互いに口もきかない状態だった。なんとか、仕上げはしたけどさ」とバリー。こうして波乱の中に生まれた『オデッサ』は売り上げもぱっとしなかったのだが、ここに来て次第に評価が高まっている。それには当Mojo誌の「埋もれた宝特集」(2000年2月号)もいささか貢献しているのだ。「今度は、ちゃんとやるさ」とバリー。「リマスターして、ちょっと手を加え、アルバート・ホールでライブでやりたい。客席がステージを取り囲む形にして、マイクは吊り下げ型を使って、50人編成のオーケストラと立派なマホガニーの床にしてね」
69年当時に話を戻すと、最後の決め手になったのは『オデッサ』のシングル選びだった。ロビンの歌う「ランプの明り」とバリーの歌う「若葉のころ」が候補にあがっていたが、シングルが「若葉のころ」に決まったとたん、ロビンがおりた。モーリスは、飲酒問題はあったにせよ、直接的にグループ内のトラブルを引き起こしたことはなく、争うふたりの双方と一緒に仕事を続けていた。「モーリスは、いつも仲裁者や仲立ちの役を買ってでてくれた」というのはバリーも認めるところだ。「ぼくとロビンみたいに感情的なふたりが相手じゃ、どうしても必要な役割なんだ」
翌年8月、バリーとモーリスはビージーズ版のマジカル・ミステリー・ツアーに挑む。『キューカンバー・キャッスル』というどうしようもない中世もののパロディだ。それというのも「ちょっと楽しみたくて」とモーリス。「だけど監督がどうもずれたやつで、何もかもぶちこわしだった。ま、タイツはよかったけどね」 同月、ビージーズは「思い出を胸に」でチャート2位のヒットを飛ばす。ソロになったロビンのシングル「救いの鐘」も同じく2位まであがった。「『トップ・オブ・ザ・ポップス』でバッタリ会ったんだけど」とロビン。「控え室も別々にしてもらって、ぜぇったいに口をきかなかった。なんか、ほんと、ばかみたいだったよね」
1969年のビージーズの収益は300万ポンド。当時にしては驚異的な数字である。11月にはベストアルバム『ベスト・オブ・ザ・ビージーズ』がゴールドディスクとなった。が、60年代最後の月がはじまったとき、バリーがタオルを投げ入れて「もうたくさんだ。つくづくうんざりして、いやになっている」と述べるにいたり、ビージー(ズ)はモーリスただひとりになってしまった。
その後、全米ナンバーワン・ヒットとなった「傷心の日々」(1971年)はあるものの、離婚、法律がらみのトラブル、飲酒・ドラッグ問題、そして税金を払うための北部でのドサ周りという屈辱の日々が彼らを待っていた。けれどもビージーズは最悪のところをついに切り抜けて、70年代のディスコ・キングとなった。
モーリスも考え深げだ。「そもそものはじめに、ロバート・スティグウッドが言ったんだ。誰だって1発のヒットなら飛ばせる。2、3発もいけるだろう。でも最低10曲ヒットを飛ばして初めて偉大なアーティストになれるんだって。あれはいいアドバイスだった。ちゃんと聞くべきだったよ。結局、いつも何かがおれたちを元の3人に引き戻す。ソングライターとして、兄弟として、おれたちはばらばらよりも一緒の方がずうっと強力なんだ」 

 

{Mojo誌2001年6月号―ジョニー・ブラック}

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Words

アメリカに本拠を置こうとは思わない。アメリカのグループは浮き沈みが激しいから、ああなりたくないんだ。

バリー・ギブ(1967年)